怒られたくなくて、恥ずかしい思いをしたくなくて、嫌われたくなくて、仲間外れにされたくなくて。
愛されたくて受け入れられたくて居場所が欲しくて。
だから、そのためには少しでも負けないように。
少しでも勝つために。
少しでも失敗しないために。
少しでも成功に近づくために。
毎日気を張って
負けないように失敗しないように
白い目で見られないために
バカにされないために
ピリピリピリピリ神経を張り詰めて生きてきた。
🌏この娑婆世界の掟
【不足】が前提とされている、この娑婆の世界は
言い換えると
弱肉強食の世界
だから、
少しでも気を抜けば自分が損することになったり
自分が誰かに食われる(負ける)ことになったり
その結果他の人と比べて自分の取り分が少なくなり(損をする)
24時間365日神経を張り詰めてリスクヘッジしてあらゆる対策をすることで
ようやく成功に近づいて誰かに勝つことができて
そうすれば得をする、いいことがある。
それが成功ってもんなんだよ、と定義されている。
弱肉強食の世界って、
ライバルに囲まれている状態
周りは敵だらけの状態
気を抜いてうっかりしていると失敗してバカにされたり惨めな思いをする状態
だから、気を抜いてはいけないし
愛されるためには(そして成功するためには)細心の注意と努力が必要とされている。
『私が愛されるためには、そしてその愛を継続させるためには細心の注意を払って注意深く存在しなくてはならない』
と無意識に思っていると
愛されるための努力や
愛されるためのファッションや
愛されるための美容や
愛されるための言動なんかが必要になってくる。
愛されるための我慢、とかね。
んで、これらの実践を怠ると
自分の好きな人をライバルに取られたり
自分の好きな人が自分に愛を注ぎ続けることをしなくなる
と思い込んでいる。
※これはまさに過去の私だ

んなバカな話あるかっ!!!
なんで愛されるためにそんなに神経削ってストレス溜めて綱渡りしないといけないんだよ。
そんなん、こっちの身が持たねーっつーの💢クソがぁ💢
と思いませんか??
また、最近も私がうっかり飲み込まれてしまいそうになった【くだらねーエゴちんの戯言】は
『我が子の教育に注意深くエネルギーを注いで、この子に何が必要か親が注意深く観察し適切なものを見極め、適切なタイミングでその教育を与えないと後で(我が子が?親が?それとも両方?)損をする』
というものだ。
私らしくもなくうっかりその魔境にほんのちょっとだけ、
爪先1センチだけ足を踏み入れてみたんだけど
息苦しくて堅苦しくてつまらなくて、そして
とっても疲れた。
爪先1センチでこんなに疲れるんだから片足突っ込んだら死ぬよ私笑
私は
『うっわ!!あっぶねーとこだったー💦😅』
と、すごすごと退散したものの
我が子の教育に細心の注意を払い管理とリスクヘッジを怠らない保護者たちの様子を目にすると、
『私もおんなじように細心の注意払ったほういいのかなー🙃』
なーんて思ってしまう。それが“正しくて”“良いこと”のように見えるんだよね。
その考えが浮かぶたびに
『あっぶね!!いま私危なかったよね!?』と自分で自分に確認し、やれやれと座り込む。
🌏体力あって行動力あって頑張れる人が愛されて成功する娑婆世界
不足が前提とされている世界では
- リスクヘッジの量
- 行動量
- それに対する知識量(勉強量)
が多ければ多いほど成功するとされていて
※これらが多ければ多いほど愛されて、多ければ多いほど何もかも上手くいくみたいな。
つまり、不足前提の世界では
行動量・努力量がモノを言う
ということになってるんだよね。
(書いてるだけでしんどっ!!)
んで、長年の読者さんなら知っていると思うんだけど
私って努力できない人間なんすよ。
私って量こなせない人間なんすよ。
できないっす。そーゆーの。
私は小さい頃から体力なくて
小学1年の時に親友だったかりんちゃんに
『私は毎日頭とかお腹とかどっかが必ず痛い』
と言ったら
かりんちゃんに『え!!私はそんなんじゃないよ!!』と言われたことがありました。
『他の人はみんなとっても元気なんだなぁぁ!!!』
と小さな私は非常に驚きました。
私は、嫌なことをすると具合が悪くなるので
小学校の集団生活が好きではなくて
そのせいで毎日どっかしら痛かったと思うんだよね。
毎日、不定愁訴があった。
生まれながらの更年期障害のようなものだ笑
だがしかし!
残酷なことに、この不足が前提とされる世界では
量、そして体力
が重要視されている…😱
この娑婆世界では
量を多くこなせば成功に近づき
量を多くこなせば愛されることになっており
体力があって量をこなせる人が居場所を作れる仕組み
になっており、
そんな世界は
私のような万年更年期障害で
体力マジでない人間にとって不利すぎるのだ。
また、この娑婆世界では量が重要視されるとともに
その量をこなすための
気分の変動のなさ、つまりいかに安定したメンタルでいるか?
も優れたことであり勝つための方法とされていて
気分の変動がしっかりあり
笑ったかと思えば次の瞬間泣いている赤子のような私にはあまりにも不利だ。

※人生の大半をベッドか椅子かソファーか温泉お風呂で過ごしている
私は1日の半分はベッドかソファーで横たわっていたくて
床ずれ大歓迎で
電車に乗るのも好きじゃなくて
天気が雨なだけで引きこもりたくて
気分の変動がしっかりあって
自分の好きな分野のことだけひたすら無言で研究したくって
研究したことはどうしても絶対に誰かに聞いて欲しくて
そのためにこうやってブログを書いて全世界に私の研究を褒めて欲しくて
その割には研究すらしたくない日も結構あって。
とにかく私はそういう人間なのだ。
私のように
量をこなせない人間
行動量で絶対に勝てない人間
気分の浮き沈みのある人間は
不足を前提とした世界では成功しない、
ということになっているし
負け続けて涙を飲んで自分を責めて1人で無様に生きていくのがお決まりだ。
🌏なぜ体力勝負/メンタル勝負の娑婆で私が成功しちゃったのか
それなのに、私はこの不足を前提とした世界で
まるで勝っている、ように見えることもあるだろう。
まるで成功している、ように見えることもあるだろう。
それはなぜか???

その理由は
負けてても、いっかー😇
に、したから。
負けてても愛されちゃって、いっかー😇
に、したから。
負けてても、お金もらっていっかー😇
に、したから。
勝つための戦略やリスクヘッジを辞めたから😇
んーー。というより
それはこの不足を前提とした世界への怒りがきっかけだったかもしれない。
『この世界はおかしい、どこか狂っている』
と、小さい頃から疑いの目で世界を見ていた。
人間は、私たちはそんなに殺伐としないと生きていけないのか?
そんなにピリピリしてないとダメなのか?
周りの大人を見ていて不思議だった。
みんな殺伐とピリピリとしてるくせに、全然幸せそうじゃない。
親とか学校の先生とか近所の人とか知り合いの大人とか。
こんなピリピリした世界の中で他人に気を遣って苦労して張り詰めて生きていかないといけないなら、死んだ方がマシだと心から思っていた。
『私が今知覚してるこの世界の方が間違ってるんじゃないか?』
小さな私は、小さな時から
現実を疑う
ってことを、素でやっていたのかもしれない。
🌏存在給💰生きてるだけで愛される
体力もないしモチベもない。
量をこなせない私は、いち早くに娑婆世界の『社会』というようなものから脱落したけれど
そんな私が辿り着いたのが
量=結果ではない世界
だった。
量と、もらえる愛が比例しない世界
量と、もらえる豊かさが比例しない世界
量こなさなくても結構もらえちゃう世界
だったのね。
で、こっちの世界に移行するためには、まず
量こなす自分であることを辞めないといけない。
愛されるための努力
評価されるための努力
居場所を作ってもらうための努力
怒られないための努力
↑これらを先に辞めないといけない。
そして、今まで
量=結果ですよ!
量=成功ですよ!
と言われ続けてきた人間が
これを辞めるのはめちゃくちゃ怖い。
吐くほど怖い。
死ぬほど怖い😇瀕死。
私も死ぬほど怖かったけど、できないもんはできないのでビービー1人で泣きながら、それらを一つずつ辞めていったのだ。
『こうやって辞めていったら現実変わるんでしょ?』
という意識はそこにはなかった。
※ここ、ポイントだ。
『これ辞めたら現実変わるんでしょ?』ではなく、私が意識を向けていたのは
宇宙の起源よりもずっと前の状態。
ビッグバンよりずっと前の状態。
つまり、
分離のない私
に意識を向けたんだ。
分離のない私
=神
=充足
=すでにある
=すべてある
頑張らないと愛されない
頑張って量こなしたり学ばないと置いてきぼりになる
苦労して嫌なことを乗り越えないとダメな人間になる
私には価値がないから今以上に頑張らないと上手くいかない
↑この、娑婆の世界では当たり前とされている考え方が
いかに狂っているのか?
これまでの自分はいかに狂っていたのか?
自分の頭がイカれポンチなだけだったんだ
と、毎日自分に言い聞かせたんだよ。
そう、私が意識を向けたのは
この娑婆世界でいかに愛されて成功するかではなく
娑婆世界のもっと前の状態
ビッグバンのもっと前の状態
正常な状態の自分、なんだよ。
娑婆世界を飛び越えて正常な状態の自分に意識を向けたら
まるで『正常な自分の状態』が娑婆世界にダウンロードされたような映像が見えるようになった。
- 頑張ってないのに愛される状態
- 迷惑かけてるのに可愛がられる状態
- 床ずれなのにお金がどんどん入ってくる状態
- 私の大好きな研究を『素敵ですね!』と認めてくれる他人の姿
- 『才能がありますね!』と言ってくれる他人の姿
- いろんな人が私の話をフンフンと大切そうに時間をとって聞いてくれる姿
- 行動量が減ったのにお金とか愛がたくさん見える状態
これが、一昔前にスピ業界で大ブームになった
存在給💰
ってやつね。
ちなみに私は存在給の提唱者である心屋さんにはマジで救われて、その昔、本とかDVDでたくさんハッピーにさせてもらいました。
私はまだまだ自分の存在給は上がっていいと思っていて、というかまだまだ上がるべきだと思っている!
2025年後半は主に以下の在り方強化期間とする。
存在給ブチ上げ⤴️⤴️💥🚀
体力労働拒否❌👎
正しさ拒否❌👎
私なんも悪くなーい🎀
私なんも間違ってなーい🎀
え!私悪くなかったんだぁー🎀
イェーイ✌️めーっちゃホーリデー🌻
ウキウキの夏🍉シリコーン‼️
イェーイ✌️ズバッと床ずれ🛏️
娑婆世界で無双!!
↑こういうのをオバ構文などと言われるのでしょうか…(戦慄)(1985年生まれ)

私にもあなたにも一つの罪もないって、ぜんぶおもいだしたい
究極までそれをやってみたい