『死ぬこと』について、
もうちょっと真剣に考えてみてはどうか?
『死ぬこと』について
義務教育で学ばないのはどうしてだろう。
こんなに大事なことなのに。
誰もが経験することなのに。
私のおばあちゃんが
いよいよ旅立ちそうだ。
おばあちゃん、お疲れ様。
嫁いだ家では
義兄がアル中で
セクハラ、モラハラ、暴力を受け
自分の娘(私の母)と一緒に
近所の川に入って死のうとしたこともあったおばあちゃん。
(ちなみにその義兄は、
上野公園でホームレスの凍死、
と言う最後を迎える)
壮絶な環境の中で
二人の娘を産んで
しばらくしてから
夫が他の女性と駆け落ちをして
夫に出て行かれた、
おばあちゃん。
二人の娘を育て上げたと思ったら
自分の娘(私の母の姉)が
アル中になり
いろんな騒ぎを起こし
最後には、
まるで
自死かのように死んでいった娘を
見送ったおばあちゃん。
私の大学の入学金を支払ってくれた、おばあちゃん。
いつも美味しいものを食べさせてくれた、おばあちゃん。
いつも味方でいてくれた、おばあちゃん。
おばあちゃん、お疲れ様。
おばあちゃん、ありがとう。
正式にはまだ死んでいないけど
(医者から死んだと言う診断をされていないけど)
もう魂は半分あっちにいて
イギリスでこうしてブログを書いている私も見えるよね。
おばあちゃん。
おばあちゃん、お疲れ様。
おばあちゃんは
今
何を感じているかな?
*
母は、
1分でもおばあちゃんの肉体を生かそうと必死だ。
心臓を止めないよう、必死だ。
おばあちゃんは
(本質的には)もう死んでいるのに
大きな病院で
点滴を受け、
一応、まだ肉体が作動している状態だ。
若い人ならまだしも、
母が
おばあちゃんの肉体の死を
先延ばしにしようとしていることが
私には理解できない。
どうして母が
おばあちゃんの肉体を生かそうとしているか?
考えてみたら
三つ、その要因が思い浮かんだ。
一つが、
死生観の勉強不足。
二つ目が
母親への癒着。
(歪んだ親子関係)
三つ目が
自分の人生への不満足感
だ。
死生観は本とか読んで勉強すればいいし
母娘関係については私の専門分野であり
それについては何度も書いてきた。
今日は三つ目の
『自分の人生への不満足感』
について書きたいと思う。
人が
他人の死を見て怖がるのは
今の自分の人生に
満足していないからではないか。
今、(魂が)やるべきことをやっていないから
死にゆく人を見て恐れる。
他人に流され
周りに振り回される人生は
生きている実感が、ない。
ただ、
なんとなく時間が経過している感じ。
(以前の私がそうだったように)
せっかく産まれることを選んだのに
『ただなんとなく時間が経過して』
肉体が朽ちて
死にゆくことは
あまりに切ない。
そりゃ、
死を
忌まわしいもの
として扱いたくもなる、
と思った。
私だって、明日死ぬかもしれない。
まだまだやりたいことはあるが
明日死んでも
なんとなく爽やかに
私は逝けそう。
もっと子供たちと一緒にいたかったな、
とは思うかもしれないけど
それは
もし仮に子供と24時間365日過ごしても
母親なら抱く感情なのだと思う。
母にも言ったが
長く生きること
は、
必ずしも良いことではない。
仮に
100歳まで生きたとして
その人生が
節約と
我慢と
人の顔色を伺う
ばかりの人生だったら
そんなの、死んでるのと一緒。
いや、死んでいる以下、だ。
だから
私たちは
節約することではなく
どうやってお金を使うか、
について学ぶべきで
どれだけ友達の数が多いか、ではなく
どんな心の通い合わせをするか、、、
つまり
どうやって楽しむか?
を
真剣に考えなければいけない。
人の死は
怖いものでも
忌まわしいものでもなく
『貴女はどうやって生きたい?』
という
魂からの問いかけだ。
ねぇ、貴女はどうやって生きたい?
これを書きながら
私は泣いているけどね。
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