なんかすごく不思議な気分。
『私』ってどうやら本当は存在していないようだ。
(ここでいう私は、37歳バツイチで会社経営してこのサイトを運営している三浦由季という人物のことだ)
これは私の37年間の人生の中でも
最大の気づきトップ3に入るんだけど
きっとあまりにおかしなことを言っているから
この記事は公式ラインで配信せず
Yukiの頭ん中シリーズでこっそり書いている。
だって、『私』は存在していないんですよ!?
普通に考えてかなりヤバい!笑
笑いが出るほどヤバい!!
で、『私』は存在していないと体感/体験しつつ
『私』の思考は『私は存在している』と思いつつ
こうやって記事を書いている。
つまり今の私は
私が存在しないと気づきつつ
私が存在すると思いながら
これを書いている。
完全に頭おかしい人みたいだ!笑
三浦由季という人間は存在しないんだけれど
彼女はここに存在しているから
私は彼女のことをとても愛おしく感じる。
例えば、私がソファーに寝っ転がると
私がいつも座って仕事をしているデスクトチェアが見える。
そのデスクトチェアが視界に入ると
私は彼女(←私)がいつも頑張って生きているんだな、
となんだかとても愛おしくなる。
我が子に向けるような、
たまらなく愛している男に向けるような、
涙が出るほど愛おしく感じるというか…
『私は生きている』と信じている『私』のことを
奇跡だと感じる。
私はここに存在していないのに
でも同時に私は存在していて
じゃあ、思考が現実化するのも当たり前だな、と感じる。
三浦由季は、その世界で生きる1人の人間のことを『私』と認識しているが
三浦由季とは、そもそも彼女が生きるその世界全体なのだ。
三浦由季=世界、なら
三浦由季の思考が世界に現実化されるのは
当然のことだ。
人は皆
思い通りの世界にしようと頑張るけれど
世界全体こそが自分なのだと気がついて
世界と自分が循環していることを感じた方が
よほど生きる喜びを感じる。
だって、世界は私のために用意されているものだから。
つまり
『私』と握りしめている、その認識を緩めていけばいいのだ。
そうしたら『私』はいなくなるからね。
その次に世界=私というのが見えてくる。
私はいなくなるんだけど
やはり私は存在するから
色んな感情が湧いてきて
人を好きになったり
嫌いになったり
笑ったり泣いたり怒ったりする。
そしてそうやって笑ったり泣いたり怒ったりして生きてけばいいのだ、きっと。
すべてを儚く美しいオーロラのようにすぐ消えてしまうものだと気付いて生きると、すべての尊さをどうしても感じてしまう。
感謝ってこういうことを言うのかもしれない。
Yuki