桜を見ても悲しくなったり虚しくなることがなくなりました。
なので今年はあんまり桜を見てませんし
(保育園の送迎の際に視界に入る程度)
桜の写真も1枚も撮っていません。
桜を見ても平気になったのです。
↓ちょうど1年前の記事
幼い頃から
『すべてのものは変化する』
『変化しないものはひとつもない』
というこの世界が怖くて不安でした。
小学生の時から太宰治が大好きでした。
太宰治の『女生徒』という作品で
主人公の女生徒がお風呂で湯船に浸かりながら
自分の手を眺め
『こうやって今私が風呂場で自分の指を眺めていることすら私は忘れていく』
というようなことが書いてありました。
私は驚きました。
なぜなら常日頃、私が一人で考えていることが
そこに文章として記されていたからです。
太宰治は、
すべてのものは変化してく、
言い換えると、すべてのものには実体がない、
という事実に耐えられなかったのかもしれません。
だから自殺したのかもしれません。
芥川龍之介も、すべてのものには実体がない、
すべて流れて消えてゆき、また新しいものが生まれるだけ、
という事実に耐えられず自殺したのだと思います。
もし彼らの中に
成熟した女性性が育まれていれば
もし彼らの横に
成熟した女神のような女がいれば
太宰も芥川も自殺なんてしなかったはずです。
なぜなら女性とは
『すべてのものには実体がない』世界と
『実体しかない』世界、
両方を体で知っているからです。
すべてのものに実体がない世界とは
永遠のない世界、有限の世界です。
↑これが現実世界です。
安室ちゃんが昔
『永遠ていう、言葉なんて♪知らなかったよね〜♪』
と歌っていましたが
この現実世界には永遠なんてないのです。
男はその事実に打ちひしがれ
耐えられませんから
その事実を見ないようにして
一心不乱に仕事をしたり
資産を作ることに執着したり
たくさんの女性とセックスすることで
その事実から逃れようとします。
(↑私のパパのように😆)
『すべてのものが変化して循環していくなんて見たくない』
『破壊と再生、死と再生なんて耐えられない』
↑
これが暴走した男性性です。
目に見えない世界が怖くてたまらないのです。
自分でコントロールできないものが怖いのです。
私たち女性は
毎月体から血を流し
ときには妊娠や出産をして
毎月、死んでは生まれ変わります。
閉経も生まれ変わりです。
私たち女性の身体は
生と死、という相反する二つのものを
同時に持ち合わせることが可能です。
(これが女の潜在能力、女性性です)
そんな私たち女性は
生まれること=死ぬこと、だと知っています。
男の体は生まれることしか知らない、と言っても過言ではありません。
それなのに!
それなのに!ですよ。
(ここからが本題です)
私たち女性が死ぬことを怖がってどうするんですか…!!
女性性女性性!!
男女平等!!
と、なんかそういうのが流行っていますが
とりあえず、しのごの言わず
女はいっぺん、黙って死んだらいいんですよ!!
本当に。
ここで言う『死ぬ』とは
命を絶つことではなく
自分の感情を見つめること、
自分の内面を見つめること、
自分のココロを観察すること、です。
自分のココロを静かに観察することは
思考にとっては『死』を現します。
(だって、思考は実体がないことがバレちゃうからね✨)
自分のココロを静かに観察して
もう一人の自分と二人きりになることは
思考にとっては『死』なんです。
だから怖いんです。
そうして怖いからと言って
自分のココロを観察せずに
現実世界を忙しくすることばかりやっていると
それこそ女性性の否定ですよ!
女性性、瀕死状態!!笑
女性性が瀕死の時は
男性性も瀕死していますから
願う力もなければ
叶える力もありません。
自分のココロを静かに観察した時
親への感情と向き合うこと、
そして兄弟姉妹への感情と向き合うことは、
避けては通れない通過儀礼です✨
ですが女なのに
みんなこの通過儀礼を怖がります。
かつての私のように。
その通過儀礼を避けて通ると言うことは
言い換えると
『いつまでもお父さんの娘でいたい!』
『いつまでもお母さんの娘でいたい!』
という、単なる処女願望ですよん✨
また、ココロのことを観察しても
いつまでも『お父さんのせい!お母さんのせい!』と言ったり
お父さんやお母さんの良いところしか見れないのも処女ちゃん。
お父さんやお母さんの悪いところしか見れないのも処女ちゃん。
処女でいたかったら、ずっと処女でいればいいと思うんですけど
でもずっと処女でいたい人なんていないでしょう?
ラプンツェルみたいにずっと家に閉じ込められたい?
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