ひっさびさのブログ更新となりましたー!
というのも、ワタクシ。
3/31に40歳の誕生日を迎えまして
皆さんにお祝いしてもらって
ありがたいことに
旅行2連発🚅してきて
もはや大好きなブログを書く時間すらありませんでした。
28歳くらいに始めたブログがこうして40歳まで続けられたことに感謝感激であります!!








いやー、しかし。
基本的に毎日ゆったり好き勝手に過ごしているので、こうして四六時中誰かに囲まれてると正直な感想、疲れるわー😂
やっぱり私は自宅大好き!おうちLOVE💞
なんの変哲もない生活で、こうして好きなときに好きなことをブログで書けることって、さいっこうにハッピーだなぁ!!
40代も老化せず!ラッキー女で!もっと美しく!妥協なしで!
充足という名の毛布に包まれてぬくぬくと存在していきたいと思います!
夜露死苦ね!!!
んじゃ、さっそく本題行くよー!

·˖❤︎不幸は体験しなくていい
私が潜在意識をガチる以前の話をするね。
昔の私は『耐え忍ぶこと』『(好きじゃないことを)頑張ること』に価値を置いていて、元々スピリチュアル好きだったこともこうじて、
『このつらい出来事も魂の成長のためぇぇぇ!!』
(嫌な出来事が起こったときに)『好転反応!好転反応!』
『今までたくさん悲しい思いをしてきたけどいいの!』
『だって、涙の数だけ強くなれるよ♪』
『アスファルトに咲く花のぉ、よーにぃ♪』
と、自分を鼓舞して生きてきたんですね。
今こうして振り返ってみると笑えるのですが、私は本気で
『涙の数だけ強くなるもん!』
『アスファルトに咲く花になるもん!』
と思っていたんだよね。
でも、皆さん。
普通に考えて嫌じゃないですか?
なんで魂を成長させなきゃいけないの?
その魂の成長とやらはいつ終わるの?
魂の成長が終わったら本当に幸せになれるの?
なんで悲しいことがあって涙を流したことにポジティブな意味づけをしなきゃいけないの?
仮に自分が花に生まれ変わったとして、
なんで、わざわざアスファルトに咲く花にならないといけないの?
アスファルトではなくって、ふわふわの栄養たっぷりの土壌で育ちたいんだが、
なぜわざわざ、かったくて冷たいアスファルトの隙間から遠慮がちに開花しなきゃいけないの?

今もスピリチュアル界隈では『魂の成長』といった類の言葉は使われているのでしょうか?
(きっと使われているだろうな。。。)
だとしたら、私から言わせてもらえば
『魂の成長』という概念を持ち出してくるようなスピリチュアルとか自己啓発は…
間違っています。
そもそも私たちは『魂を成長』させる必要なんか、ありません。
その理由は明確にあります。
私たちが魂を成長させる必要がないのは、
『私=完璧』
という絶対条件があるから、です。
元々すでに完璧なので、私たちは魂の成長なんかしなくていいわけです。
本来の私たちの世界(充足の世界)には、そもそも
成長する余地のある状態(魂)なんか、存在しません。
私も昔、この『自分の魂を成長させる!』的な概念にハマったことがあったのですが
当時の私がなぜその概念にハマったかというと、私の意識の根底には
『私は欠けている』
『私は不完全』
『私には付け足さなければいけないものがある』
という、誤った思考がこびりついていたから、です。
で、私にこびりついていたその根強い思考は
『自愛』
をすることで、どんどん薄まり
それによって自然と私は
修行的スピリチュアル
修行的自己啓発
から足を洗うことができました。
私たちは誰だって幸せになりたくて、潜在意識やスピ業界という怪しい世界に足を踏み入れたのに。
それなのにそこで『魂の成長』のための修行を始めるなんて馬鹿げています。
なのでもし、この記事に出会ってくれた人の中で修行的スピをやってる方がいたら
即刻足を洗うことをオススメします。
そんな修行より、もっと
自分という存在が脈々息づいてる感じ💞
自分の命が鼓動を打ってる感じ💞
堂々と自分専用の世界を舞台に表現してる感じ💞
を味わおうよー。
不幸(修行)をやってる暇なんてないよ。
·˖❤︎そもそも私たちは幸せを拒否していた
↑この見出しのとおりなのですが、
幸せになりたい、
最高のパートナーと結ばれたい、
豊かになりたい、
と言いつつ
私たちは実のところは幸せを拒否しているのでは?
という、私から皆さんへの問いかけです。
幸せを拒否する状態
=幸せ(充足)に価値を置かない
=不幸(不足)に価値を置いている状態、です。
岡本夏生さんの『涙の数だけ強くなれるよ♪アスファルトに咲く花のように♪』の曲は、調べたところ2000年にリリースされた曲のようです。
※読者さんのツッコミで気づきましたが、岡本真夜さんでした😂
当時この曲(曲名はTOMORROW)は日本で大ヒットし、どこに行ってもこの曲が流れていました。
私はこの曲を中学校か高校の学校行事でみんなで歌ったような記憶が薄らあります。
つまり、この曲は文科省の支配下である学校に導入されるほど日本という国で『認められた』曲であり
(だって子供に積極的に歌わせるほどだからね)
それほど、日本の“ちゃんとした常識的な大人たち”から『素晴らしい!』と評価された曲、ということになります。
↓潜在意識の世界は、常識とは真逆の非常識な世界です。
で、この
涙の数だけ強くなれるよ。
アスファルトに咲く花のように。
という歌詞は、潜在意識オタクの私から解説すると
悲しいこと(不幸)があってたくさん泣いても、その分立派な他人から評価される人間になる。
だからアスファルトに咲く花のように、どんなに不幸な状況にあってもそれに屈するな。
という意味であり、これって
自分が不幸を体験することを積極的に肯定している歌詞
自分が不幸を体験してもいい、という姿勢
に他ならないと思うのですが、みんなどう思うー??
で、2000年にリリースされたこの歌が多くの国民に支持されたのも
それだけ自分に不幸を許容する日本人が多い
という事実を示唆しているのではないだろうか?と私は思うわけです。
·˖❤︎不幸に酔いがちだった私
さて、岡本夏生さんのあの曲がリリースされた2000年と言えば、私は15歳くらいでした。
当時の私は岡本夏生さんのあの曲にそこまでハマっていたわけではありませんが、あの歌詞にはなんとなく共感して
『そうだよね。。。たくさん寂しい思いも悲しい思いもしたけど、その分強くなってきっと幸せになれるんだよね。。。』
『アスファルトに咲く花って、なんか健気で憧れるかも。。。』
なーんて思っちゃったりしました。
しばらくそんな意識状態で生きていくのですが、20代半ばくらいから、
度重なる失恋や、豊かにならない経済状況、
嫌な仕事でも続けないと生活できないと思っている私…
そんな状態にいよいよ私の心は限界を迎え悲鳴を上げて
『もうマジで幸せになりたいよぉぉ!!😭』
という気持ちで、潜在意識業界に足を踏み入れたのでした。
そんな私が潜在意識を学び始めてから最初のうちはやはりアスファルトの花の呪いのせいで、どうしても
修行的なスピリチュアル
修行的な潜在意識の教え
に心を惹かれてしまい、自然と
『これまでの私は欠点だらけだからそこを矯正しなければいけない!』
という意識で自分と向き合っていました。
でも、当たり前ですがこの方法ではほとんど現実に変化がないばかりか心の苦しさは増す一方です。
そしてついに私は
『こんなクソ真面目な修行的なこと、やってられっかー💢』
と、ブチギレ、匙を投げ
『私は完璧』
『この私が最高で完璧』
『誰が何と言おうとこの私が素晴らしくてそれ以外あり得ない』
という、
超オラオラ方面の自愛へ舵を切ったのでした。
充足が驚くような形で私の現象世界を照らし始めたのは、そこからでした…。
しかし、このオラオラ方面に舵を切る前か舵を切る頃に
私はいよいよ気が付き始めました。
何に気がついたか?というと
『不足(不幸)には一切の価値がないのでは…?』
ということに気がつき始めてしまったのです。
これは少なからず私に動揺をもたらしました。
なぜならそれまでの私は自分が数々の不幸を経験してきたことに価値を置き、そういうどことなく影のあるようなアンニュイな雰囲気の自分をそこそこ気に入っていた、
ということに気がついたから、ですねー!!
例えば私は自分の生い立ちに酷く劣等感を抱くと同時に
『こんな特殊な生い立ちの私は特別な存在で、だからこそ私はなかなか他人にこの孤独を理解されないのだ。。』
という、厨二病的思想が気に入っていた、ということに気がついたのです…!!
高校生の頃は浜崎あゆみの
『居場所がなかったー、見つからなかったー♪』
『いつも強い子だねって言われ続けてた♪泣かないで偉いねって褒められたりしていたよ♪』
という歌詞に共感しまくり
『ayuのこの歌詞の本当の意味を理解できているのはこの世界でayuと私だけだ…』
と思い込み、誇らしい気持ちになったりもしました。
つまり私は
- 不幸な私
- 不足を体験する私
のことが結構気に入っていて、そこに自分の価値を置いていたのです。
この症状に名前を付けるとしたら、やはり
不足中毒
になるでしょう。
で、この不足中毒の人は本人が気づいているかどうかに関わらず、結構多くて、そういう人は
これまでの自分の悲しい体験
に酔っていてちょっとうっとりなんかしちゃってるのですね。
ですが、私がこの
『不足には何の価値も存在意義もない』
と気がついたときに
『えー。あんなにもがき苦しんだのに、あれには価値なかったんかぁ。。。』
『一生あの記憶と付き合っていかないといけないと思ってたけど、もう忘れていいのかぁ。。。』
『なんか、、あっけな😅、、、』
と、何とも言えない微妙なキモチになり
なんっつーか
本当は走らなくていいフルマラソンを間違って全力で走ってしまった(しかも水分補給なしで)
みたいな感覚でした。
え。涙の数だけ強くなるわけじゃないんか。
ってかそもそも涙流す体験をしなくていいんか。。
流すのは歓喜の涙だけでいいんか。。
アスファルトなんてなかったんか。。
魂も成長が必要ないほど完璧だったんか。。
なーんだ😅
ハハッハハッ(シーン)
と1人で笑ってしまうほど、
ポカーンとするような憑き物が取れたみたいな、そんな感覚。
さぁ、ここまで来るとどんどん充足が
どんどん幸福が見えてくるぞ!
それは自分の内面が楽になっただけ、というまやかしではなく
この現象世界でハッキリ映像が変わる、
ということだ。
※何度も言うが映像を変えることに固執すると変わらないぞ、そこ、注意な。
『完璧な私』は『完璧な現象世界』を体験して当たり前
嫌なもんは『いや!』でいい
私たちには充足(幸せ)しか似合わない
自愛道場3で待ってるよ👍