今日ね、仲良い方とお話をしていて
『不登校』の話題になりました。
その方も私も不登校の経験があるのだけれど
その方は『不登校だった自分をやましいと感じている』と言っていたのね。
こういう風に感じる人は多いけれど
じゃあ、
なぜ不登校な自分にやましさを感じるのか?
なんです。
不登校な自分にやましさを感じるのは
・不登校な自分は、普通に学校に通っていればできる経験を失った
と思っているから、なのね!
ちゃんと学校に通っていればもっと違ういい人生があったかもしれない。
↓
不登校だったことによって、あの時の私は可能性を『失った』のかもしれない。
↓
不登校でなければ得られた何かが『ない』
↓
私には『ない』
こうやって
自分に対して『ない』と言い続けているから
不登校という過去の出来事が重いものになる。
私は中学2年生の時
不登校になりましたが
その、不登校だった自分のことを
『得られるはずの何かが“ない”』とは、ちっとも思っておらず
繊細さが“ある”私が不登校になった。
感受性がビンビンに“ある”私が不登校になった。
と本気で本気で思っているのね。
どんなに思考で嫌だなと感じる出来事でも
そこには本当は“ある”しかないのね!
絶対に。
貧乏でも離婚でも失恋でも
絶対に“ある”しかない。
“ない”は、ない、の!!!!!!!
またまたコメントありがとうございます✨
>年子の長女だから,
絶対に手をかけてもらってない,
我慢ばっかりさせられてた,
愛情不足だから,こんなひねくれた性格なんだと。
もう、自分に『ひねくれてる』って言うの、
やめていいんだよ。
私はひねくれている、と言いたい時は
私は素直さがない
私には良い所がない
と言いたいの。
違うの!!!あるの!!!
ちゃんぴぃさんには真面目さがあって
周りの人の気持ちを慮る配慮がある、の
さらに、
ちゃんぴぃさんは
親がいる(ある)の。
妹がいる(ある)の。
もっと手をかけてほしい!
もっと私を見てほしい!
と言いたくなるくらい大好きな親があるの。
愛している他人が“ある”の!!!!!
ちゃんぴぃさんの中には
愛が“ある”の。
↑無理に思い込まなくていいけど
そういうことなんだ。本当は。
>年老いたおばあちゃんを見て、老いて行くことの切なさと同時に尊敬の念を感じたり、子供を見るお母さんの笑顔がすごく暖かくてハッとさせられたり。
あ、こう感じられる自分の内側には色んな豊かさがある!と思いました。
そうそう、普通に生活してるだけで
たっくさん内側で何かが動くでしょ?
それがあずきさんが“ある”ってこと!!!
それ、すごいこと!!!
でね、年老いたおばあちゃんを見て切なくなるのはなぜ?
年老いたおばあちゃんは
若さが“なくなった”人、ではないんだよ。
私たちは年齢を重ねることで
若さが“ない状態になる”ということでは、ないんだよ!!
絶対に!!
年老いたおばあちゃんには
“熟成”があるの。
そして“智慧”もあるのだ。
歳をとることは失うことではない👵
>不安、恐怖などはエゴが騒ぎ出して、それもまた豊かさだ!とは思えないことも多々ありますが、ゆっくり観察していこうとおもいます。
不安を感じている私が“ある”のよ!
私という存在がここに“ある”の。
不安や恐怖を感じられる自分があって
不安や恐怖に飲み込まれたままで生きるか
不安や恐怖を飛び越えて生きるか、
選べる自由が“ある”。
この世界には“ある”しかない。
だから私たち、生まれながらにして“豊か”なんだ。
愛もお金も
私たちが欲しい『豊かさ』は
今の自分で“ある”に気づいた時、見えてくる。
Yuki