■充足,至福の世界

【愛について学ぼうか②】大震災。津波。幸運。

『愛ってなんでしょう?』
とクライアントさんから質問を受けた。

 

 

 

愛とは。

 

 

 

 

 

『愛』について
私が他者にマンツーマンで
『これこれこーゆものが愛ですよ!』
と言葉で説明するのは
とても違う気がした。

 

その人の中に既にあるものを
『言葉』という制限された道具で説明するのは困難だ。

 

 

 

 

 

そして世界は愛で溢れている。

 

どんなに今孤独を感じていても
打ちひしがれていても
貴女の目の前に既に愛はある。

 

 

どんなに私たちが愛を否定しようと
それは隠しきれず溢れ出てしまっている。

 

 

これは綺麗事でもなんでもなく事実だ。

 

 

 

 

 

 

もう、このブログで何度も書いたような気がするけど
東日本大震災の時の私の経験について書こうと思う。

 

 

 

2011年3月11日。

26歳の私は
宮城県仙台市の不妊治療クリニックて看護師として働いていた。

 

 

その日、新入社員の看護師さんたちの
制服合わせがあったため
私はクリニックで
新卒の看護師さんたちが来るのを待っていた。

 

 

もうすぐ午後の外来が始まろうとしたとき
それは起こった。

 

 

 

青森生まれの私は
幼い頃から震度5程度の地震は
何度も経験していたが

その日の揺れは
今まで経験したそれとは全く違っていた。

 

震度5や震度6では
人間はまだ歩き回ることができる。

 

 

だが大震災のあの異常な揺れは
歩くことは困難で

地震が来たらとにかくすぐ逃げる!!
をポリシーに生きてきた私でも
まったく歩くことができなかった。

というか立っていることさえ、できなかった。

 

 

(患者さんも既にたくさん来ていたのだが
私は例のポリシー故に
患者さんも置いて1人で逃げようとしていた🤣
なんせ20階建ての高層ビルだったので
崩れたらどうしようと思ったのだ…笑)

 

 

 

地震大嫌いの私は
立ち上がることすらできないので
クリニックの受付で
『え!?なにこれ?何!?』
と叫んでいた記憶がある。

 

そしたら受付で働いている
医療事務の女の子に
(彼女は私より何個か年下だった)

『うるさい!!』って怒られた😂

 

 

 

そんな若い彼女は
患者さんを抱き抱えて守っていた。

かたや、ナースの私は
1人で逃げようとしていた😂

 

 

 

揺れは一向におさまらないし
おさまったかと思ったらまた揺れが継続されるので
私は頭の中で

『これは絶対に地震ではない!
911テロ事件のように、このビルに飛行機が突っ込んだか、
もしくは地球が滅亡するんだ!!』
と、マジで本気で覚悟した。

 

『人間ってこんなにも無力なんだ』って思わせられた。

 

 

 

当時働いていたビルが写ってます。

 

 

そうこうするうちに揺れは治ったのだが
仙台市中が停電になり
ビルの電気も使用できなくなった。

 

私たちはスタッフ全員で1階に降りて
この後どうするか話し合ったり
つわりで体調の悪い患者さんのケアをしていたように思う。

 

 

その日私は、1人で帰宅するのもなんか心細いなーと思っていたのだが
いつも良くしていてくれたナースの先輩が
『福田さん、うち来るか?
あんたの家、停電してんじゃない?
うちはでかい警察署の隣だから停電してないはず』
とカッコよく誘ってくれたので
お言葉に甘えて先輩のうちに泊まらせてもらうことにした。
※そして本当に先輩の家付近は停電してなかった。

 

 

そのとき私たちは
ケータイも電波に繋がらないし
テレビもラジオも見れなかったので
まさかここからほんの数キロの場所で
あんなに大きな津波が起きているなんて知る由もなかった。

いつもと同じただの地震だと思ってた。

 

 

私は
『先輩んちにお泊まりだー!』
と浮かれていた。

 

 

街はいつもと全く様子が異なり
駅前のデパートのおしゃれなカフェも
ついさっきまでここでお客さんがお茶してましたよ、
というそのまんまの雰囲気で
食器は散乱し椅子も倒れ
そして人っこひとり、いなかった。

 

 

 

正直に言って
私はワクワクした。

まるでゾンビが出てきそうな、
映画に出てきそうな街の様子にワクワクが止まらなかった。

 

 

私たちが津波による甚大な被害を知ったのは
その翌日のことだ。

 

 

太郎二郎と仙台に行ったとき。

 

 

 

当時働いていたそのクリニックの院長は
その環境の中、クリニックを通常通り営業することを決断した。

通常通り、と言っても
営業時間はかなり短縮され
患者さんもほんの少ししか来られなかったけど。

 

 

クリニックから家が近い私と先輩は
その日から約2ヶ月、休みなしで毎日通勤した。

 

他のスタッフは公共交通機関が麻痺しており
ほぼ来れなかった。

 

 

私は浮かれて、市場でキャベツ半玉500円で買ってみたりしていた。

※野菜を買えるのが貴重だったのだ😂キャベツ好きでもないのになぜか買った😂

 

 

 

クリニックを少人数で細々と営業していたら
このクリニックに長く通っている患者さんが
いつもは綺麗に整えられているロングヘアがボサボサになった状態でクリニックに訪れた。
ジャケットには土も付いていた。

 

その患者さんは
その日、妊娠しているかどうかの判定の日で
私はいつも綺麗にしている彼女がボサボサな様子を見て
『地震でいろいろ大変だったんだな』と思った。

 

 

だが、、、

事実は小説より奇なり。

 

 

その患者さんは
海沿いの街に住んでおり
震災の後に津波に飲み込まれたものの
なんとか津波から脱出できたと聞いた。

ジャケットについている土は
津波に遭遇した時に付着したものだという。

 

 

私はその人が妊娠しているといいな、と思ったが
その患者さんは何年も通って
何回も体外受精をしているが
これまで陽性反応が出たことが一度もなかった。

だから、本音を言うと
今回も難しいのだろうな、、と私は思っていたよ。

 

 

 

でもね。

 

 

 

その患者さん
妊娠していたんだよね…!!!

 

 

患者さんが津波から逃げているときに
既にお腹の中に赤ちゃんがいたんだね。

 

患者さん、泣いていた。

私たちスタッフみんなも泣きたいくらい嬉しかった。

 

『幸せだな』って思った。

 

 

だが当時は津波直後で
まだ被災者がどれくらいいるのかも
わかっていない。

ラジオでは悲惨な情報ばかり流れている。

 

そんな状況で幸せを感じていいものか、
それを感じることに後ろめたさもあったけど
私は幸せだった。
(そしてここで後ろめたさは不要なのだ)

 

『生きるってこういうことだよ』
と神様みたいなものから言われてる気がした。

 

『大丈夫だから』って。

 

 

 

仙台の牛タン🐮

 

 

また別の患者さんの話。

その患者さんも長いこと通院して
ずっと妊娠しなかったのだが
大震災のほんの少し前に妊娠が発覚した。

 

ボブがよく似合う、その患者さんが
震災後もクリニックを運営している私たちに
ハチミツレモンの温かいドリンクと
チョコレートのお菓子をプレゼントしてくれた。

『看護師さんも受付の方も
こんなときに病院を開けてくれてありがとう』
って、プレゼントしてくれたのです。

 

私たちはしばらくの間、甘いお菓子も食べれてなかったのだが
そのハチミツレモンの美味しかったこと…!!!

 

 

 

私は『幸せだな』と思った。

全然大丈夫、って感じたね。

どんなに悲惨な報道があっても
原発がどーのこーのってわけわからん情報があっても
とにかく大丈夫だってことに気がついた。

 

 

 

その頃、仙台の街を歩けば
飲食店の方々が
お店の前で食料を売っていた。

 

停電でお店は営業できないけど
食料はあるので売りますよ!
という感じ。

 

 

私はよくその商店街で買い物をしたが
(なぜかジンギスカンとか買っていた😂
ジンギスカンを買ったのは後にも先のもその時だけである)

『大変だけど頑張りましょうね!』
『はい、これもサービスするよ!』
って、商売人たちからたくさん励ましてもらった。

その人たちもお店を営業できなくてよっぽど大変だろうに!

 

 

断水してしまった人たちに
無料でお水を配っている人もいた。

 

 

私はというと
大震災当日から1ヶ月間は毎日先輩の家に泊まって
料理好きな先輩に毎日ご飯を作ってもらって
関東に住む、先輩の彼氏から日用品や食料をたくさんもらった。

物資がある関東から
その先輩の彼氏は、物資を車に詰め込んで
仙台まで何往復もしてくれた。

なんと、先輩が気ぃきかして
当時の私のタバコ、マルボロメンソールまでカートンで配給してくれた🚬🤣

 

 

 

次第にその先輩の家には
私のほかに、もう1人別のナースの先輩も来るようになり
(なんとその先輩は震災発生1時間前に電話で彼氏に振られていた(°_°))

受付のお姉さんや
培養士という役割の女の子も男の子も来るようになった。

 

クリニックに出勤すると
当時60歳くらいの院長🧑‍⚕️が
大量におにぎり握って持ってきてくれた。

 

毎日みんなで支え合っていたので
私はとても心強かったです。

私はとてものびのびと生活していました。

 

 

当時の私は4年付き合った彼氏と別れて引きずっていたのだが
そんなことも忘れてしまうくらい、充実した日々でした。

 

 

 

あの時期
約2ヶ月間、毎日出勤したけど
私ちっとも疲れなかったんです。

この、怠け者の私が
ちっとも疲れなかった。

 

 

 

あの頃の私が
なぜあんなに充実していたのか?

なぜあんなに疲れずエネルギーに溢れていたのか?

 

 

 

 

 

その答えが『愛』ではないでしょうか。

 

 

 

あのときの仙台の一体感は
今でもありありと体感で感じられる。

 

 

あったかい
安心
安全
大丈夫
希望
繋がり

 

 

 

私は東京に住んでいるけれど
私の会社は所在地が仙台市になっています。

だから法人税は仙台に納めている。

 

 

東京に引っ越す際に
税理士さんに
『会社の住所、東京に変えますか?』
と言われたけど
私の会社はそのまま仙台に住所を置いています。

 

 

なぜなら
今日書いたような理由で
私は仙台市にとても感謝しているから。
助けられたから。

 

 

孤独を感じてもおかしくない状況で
ちっとも孤独を感じないように
みんながしてくれたから。

それも、当たり前のように。

 

 

 

仙台のウェスティン🏨

 

愛って
人との繋がりで思い出されるものなのだと思う。

 

他人が存在する理由は
私たちひとりひとりが愛を思い出すため。

 

みんなで世界を創っているのだから。

 

 

Yuki

 

 

 

 

仙台の夜の街はこんな感じでーす!

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